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ウェーバー『職業としての政治』岩波文庫[1919=1980]

 

【政治(politik)】:「自主的に行われる指導行為」(8)。「権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力」(10)

・「政治的問題」=「権力の配分・維持・変動に対する利害関心」(10)

【国家】:「ある一定の領域の内部で正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体」(9)→国家が暴力行使への「権利」の唯一の源泉と見なされているということは、現代に特有の現象である。「正当(legitime)な暴力行為という手段に支えられた、人間の人間に対する支配関係」(10)

 

◆支配の正当性:支配の内的な正当性の根拠(11)

@伝統的支配(「永遠の過去」がもっている権威の神聖化)

Aカリスマ的支配(人格的な帰依と信頼に基づく。人民投票的支配者を含む)

B合法性による支配(制定法規の妥当性に対する信念と、合理的に作られた規則に依拠した客観的な「権限」とに基づいた支配)

→近代のカリスマ的支配には、「自由なデマゴーグ(民衆政治家)」と「立憲国家における政治指導者」がある。これらは天職に基づいた政治家である。(13)

 

◆近代国家の成立

・「近代国家の発展は、君主の側で、自分と肩を並べている行政権力の自律的で『私的な』担い手[身分的な役職者]に対する収奪が準備されるにつれて、どこでも活発化してきた。…近代国家では、政治運営の全手段を動かす力が事実上単一の頂点に集まり、どんな官吏も自分の支出する金銭、自分の使用する建物・備品・道具・兵器の私的な持ち主ではなくなる。こうして、今日の『国家』では——そしてこの点こそ近代国家概念にとって本質的なことなのだが——行政スタッフ、つまり事務官僚と行政労務者の・物的行政手段からの『分離』が完全に貫かれている。」(17)

→しかし1918.11.のドイツ革命:国家から政治手段と政治権力を奪う動き。

・近代国家は【アンシュタルト】である。所属の義務づけと合法性(→訳注108頁)

 

◆政治支配者に奉仕する職業政治家

・二つの道がある。@「政治によって生きる人」:政治を恒常的な収入源とする人。A「政治のために生きる人」:経済的な面では余裕があるレンテ生活者(不労所得者)であり、政治生活に打ち込んで意味を見出す人。

・国家や政党の指導が「政治のために生きる人」によって行われる場合、「政治指導者の人的補充はどうしても『金権制的』に行われるようになる。」(24)

→「政治関係者、つまり指導者とその部下が、金権制的でない方法で補充されるためには、政治の仕事に携わることによってその人に定期的かつ確実な収入が得られるという、自明の前提が必要である。」(25)

 

◆近代的官吏制度の発達

・専門的エキスパートになっていく過程(27-)・官僚たちの不可避的に増大する専門訓練の、最高指導権への圧力⇔君主(30)・ドイツとイギリスの例(31-)

・政治の発展→「専門官吏」と「政治的官吏」の区別(32)

 

◆職業政治家のタイプ(35-)

・@聖職者、A人文的な教養を身につけた文人[読書人](とりわけ中国)、B宮廷貴族、Cジェントリー:都市貴族(イギリス)、D法律家(ヨーロッパ大陸)

・ジェントリーは、自らの勢力を伸ばすために地方行政の官職を無償で引き受けたことで、官僚制化からイギリスを守った。(37)

 

◆官吏と政治家の関係

・「政治指導者、したがって国政指導者の名誉は、自分の行為の責任を自分一人で負うところにあり、この責任を拒否したり転嫁したりすることはできないし、また許されない。官吏として倫理的に極めて優秀な人間は、政治家に向かない人間、とくに政治的な意味で無責任な人間であり、この政治的無責任という意味では、道徳的に劣った政治家である。」(41)・ジャーナリストについて(43-)・近代的な政党組織の発展過程(54-)

               →イギリス、アメリカ、ドイツの歴史

◆民主政における指導者

・《「マシーン」(指導者のために働く政党組織)を伴う指導者民主制》か、それとも《指導者の本質をなす内的・カリスマ的資質をもたぬ「職業政治家」の支配》——これは「派閥支配」とも呼ばれる——を選ぶか。(74)

・実際に問題となるのは、議会による指導者選出の仕方と、比例選挙法である。

→議会によってではなく、人民投票によって指導者を選ぶような大統領制が必要。

 

◆指導者的政治家の条件

@情熱:事柄に即するという意味での情熱、つまりSache(仕事/問題/対象/現実)への情熱的献身、その事柄をつかさどっているデーモンへの情熱的献身(77)

→仕事としての政治のエートス(82)⇔興奮・ロマン感情にもとづくデマゴーグ

→事柄に仕えるということは、行為にとって内的な支柱である。(81)

A責任性を行為の基準にすること

B判断力(Augenmaß):事物と人間に対して距離を置いてみること(78)、距離への習熟

・権力本能は政治家にとってノーマルな資質であるが、しかし権力追求が仕事の本筋から離れて自己陶酔(ナルシシズム)の対象となってはいけない。それは「職業の神聖な精神に対する冒涜である」(79-80)

 

◆政治倫理の問題:政治は、その目標とは別個に、人間生活の倫理的な営みの全体のなかでどのような使命を果たすことができるのか。政治の倫理的故郷はどこにあるのか。(82)倫理と政治の関係はどうなっているのか。(85)

 

◆騎士道精神

例1.ある男性が、女性Aから女性Bへ愛情を移した。ここでもしその男性が、女性Aは自分を失望させたとか言って、不幸の責任を女性に帰し、正当化し、自己弁護する場合。

⇔「愛していない」と言って、その女性が運命に堪え忍ぶ。

例2.ある女性をめぐって二人の男性が奪い合っている。そこで選ばれた男性が、もう一人の男性のことを、あいつは下らない、劣っているのだ、と述べる場合。

例3.戦争に勝ったものが、自分はやっぱり正しかったのだ、という場合。

⇔勝か負けるかは、運命であるとする。

例4.戦争のすさまじさに精神が参って、「自分は道義的に悪いことをしているから耐えられないのだ」という場合。

⇔精神の緊張に耐えること。

 

◆道義的責任(倫理)と将来への責任(政治)

・「戦争の道義的埋葬は、Sachlichkeitと騎士道精神、とりわけ品位によってのみ可能となる。それはいわゆる「倫理」によっては絶対不可能で、この場合の倫理とは、実は双方における品位の欠如を意味する。政治家にとって大切なのは将来と将来に対する責任である。ところが「倫理」はこれについて苦慮する代わりに、解決不可能だから政治的にも不毛な過去の責任問題の追求に明け暮れる。政治的な罪とは――もしそんなものがあるとすれば――こういう態度のことである。」(84)

→結果に対する倫理的・道義的責任と、将来に対する政治的責任の区別。

・ただし「品位」については、信条倫理を貫くことにも妥当する。(87)

 

◆【信条倫理】と【責任倫理】

・「倫理に方向づけられたすべての行為は、根本的に異なった二つの調停しがたく対立した準則のもとに立ちうるということ、すなわち『信条倫理的』に方向づけられている場合と、『責任倫理的』に方向づけられている場合があるということである。

 

・「福音の掟は無条件的で曖昧さを許さない。汝の持てるものを――そっくりそのまま――与えよ、である。それに対して政治家は言うであろう。福音の掟は、それが万人のよくなしうるところではない以上、社会的には無意味な要求である。だから課税、特別利得税、没収――ようするに万人に対する強制と秩序が必要なのだ、と。しかし、倫理的掟はそんなことをまったく問題にしないし、そこにこの掟の本質がある。」(87)

・「akosmischな愛の倫理を貫いていけば『悪しき者にも力もて手向かうな』となるが、政治家にはこれとは逆に、悪しきものには力もて手向かえ、しからずんば汝は悪の支配の責めを負うにいたらん、という命題が妥当する。」(87)

・信条倫理家は、善なる信条倫理(社会の不正に対する抗議!)から発した行為は、その結果が悪ければ、その責任は行為者にではなく世間(他者)のほうにあるとする。

・「キリスト者は正しきを行い、結果を神に委ねる」(89)

 

⇔これに対して責任倫理家は、人間の平均的な欠陥のあれこれを計算に入れ、自分の行為の結果に対して(それが前以て予見できた以上)責任をとる。(89)

・「『善い』目的を達成するためには、道徳的にいかがわしい手段を……用いなければならず、悪い副作用の可能性や蓋然性まで覚悟してかからなければならないという事実、を回避するわけにはいかない。」(90-1)

 

・「信条倫理には、道徳的に危険な手段を用いる一切の行為を拒否するという道しか残されていない。」「信条倫理と責任倫理を妥協することは不可能である。」(92)

・善い意図をもった行為が善い結果をもたらさない(またはその逆)ということ。この非合理性の経験は、すべての宗教発展の原動力であり、政治にかかわる人間は、手段としての権力と暴力性に関係をもったデーモンの力と契約を結ばなければならない。(94)

→「正当な暴力行使」という倫理的問題へ(96-7)

・責任倫理は「魂の救済」を危うくする。(101)

・「悪魔は年をとっている」。「だから悪魔を理解するには、お前も早く年をとることだ」(ゲーテ『ファウスト』第二部)(101)

・「結果に対する責任を痛切に感じ、責任倫理に従って行動する、成熟した人間……がある地点まで来て、『私としてはこうするよりほかない。私はここに踏みとどまる』[ルターの言葉]と言うなら、はかりしれない感動を受ける。」(103)

 

◆諸君の生き方と政治の生

・@憤懣やる方ない状態にいる。A俗物に成り下がってただぼんやりと渡世を送っている。B神秘的な現世逃避に耽っている。

・「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が——自分の立場からみて——どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への『天職』をもつ。」(105-6)